1980年代、阪急六甲北側界隈の店主らは、すでに危機感を感じてい た▼松蔭が垂水の山奥からやって来て、折からの女子大生ブームも あって阪急六甲北側の坂道は華やいでいた。「ウエザーリポート」 「OLD & NEW」「遠山屋」など、女子大の街を当て込んだと見える 大型飲食店と、服飾系のスパイスの効いた小さな店が相次いで出現 した。ヌーベル六甲のテナントはほとんど埋まり、美容院やケーキ 屋も増えた▼JJでは、「六甲界隈のニュートラ女子大生、母娘2代 でお買い物。小物使いは母がお手本」の図がこれぞ神戸エレガンス とばかり演出された。だが界隈の店主らは「そら宮前市場の話か?」 六甲口にはひと山150円の玉ねぎをネギるおかんと娘はおっても、 阪急六甲界隈では買い物どころか通過されるばかりやと嘆いた▼金 をたくさん持っていると期待された松蔭生は、駅北側の寮生ですら ほとんど街には目をくれず、坂の途中で出会うと必ず「ひさしぶり ~」といいながら腰のあたりで手首から上だけ動かして手を振る奇 妙なあいさつをしつつ梅田か三宮に直行した。もしくは彼氏の車で 苦楽園などに行ってしまった▼街に残ったのは、コーヒー1杯やト ースト1枚で何時間も粘る神&神外大の貧乏学生。喫茶Tのバケツ オーレ、今はなきYまんのびっくりうどん、そしてO屋の横綱うどん 一気食い者名前張り出しに一喜一憂していた。阪急六甲北側の某ピ ザハウスがピザを食う客に絶対にドリンクを強要したのは、店の自 衛策なのだろう▼店主や六甲の街を愛する人々は、なんとか岡本み たく女子大生がたむろしてお金を落とす街にしようと、坂道に名前 をつけようとしたり、ミニコミ誌を作ったり、個性的な食べ物のメ ニューを考えたりした。先出の某ピザハウスの「ピザ食べ放題」は、 今でこそ当たり前だが当時としては画期的で、さすがの松蔭生も食 べざるを得なかったという。街に対する、今とは一味違う一生懸命 さがあった時代だ。
カテゴリーアーカイブ: ナダタマアーカイブス
【ナダタマアーカイブス】灘の昼ごはん(naddis120510)
V3という仮面ライダーを覚えているだろうか。イタリアの名車、ランチアストラトスを彷彿とさせるイタリアンカラーに身を包んだV3のデザインは衝撃的で、それまでの地味な1号、2号ライダーが時代遅れに見えた。なにより怪人達がステキ過ぎた。V3に登場する合成怪人は自然物と人工物を無理矢理合体させたというシロもので、これがかなりユニークだったのだ。カメ+バズーガ砲=カメバズーガなどはかわいい方で、テレビ+ハエ=テレビバエ、磁石+イノシシ=ジシャクイノシシなど強いのか弱いのか分からない即物的な異形の怪人たちに心を躍らせた。そして自分でも新しい怪人をつくって楽しんだ。ノコギリネコ、タコナイフなど、合成させるものの落差が大きいほど魅力的な怪人になった。灘中央市場にあったお好み焼き[なかむら]跡に、新店舗ができた。[なかちゃん]というお好み焼きにありがちな店名にも関わらず中華がメインという意外性。名付けて「鉄板中華」。鉄板+中華…それはV3の合成怪人に匹敵する蠱惑的な響きがある。元々某ホテル中華の料理人だったオーナーが、たまたま鉄板のある店で独立することになったのでこのジャンルが確立したという経緯もステキだ。分厚い鉄板の上にはスープが入った大きな寸胴鍋という風景も新鮮。V3的な「エビチリ焼きそば」を注文した。エビチリと鉄板焼きのそば焼がどのように融合するのか?焼き上がるまで水餃子をつまみながらワクワク待つ。中華麺ではなくそば焼き用の太麺を表面がカリっとするまでじっくりと焼いている間に、手際良くフライパンでエビチリをつくる。そしておもむろに振り返り鉄板の上のそばとエビチリを合体。「ジュワー!」エビチリのあんが鉄板の上に踊り、プリプリのエビが焼きそばの上に鎮座した。いや~たまらん。中華料理が鉄板という舞台で新たな命を吹き込まれたように思えた。エビチリ+焼きそばはカメバズーガを越えた。
なかちゃん「エビチリ焼きそば」
●場所
水道筋3(灘中央市場内)
●本日の昼食
エビチリ焼きそば
730円
【ナダタマアーカイブス】NADA sonic02(naddis990412-14)
校歌って皆さん覚えていらっしゃいますか?
たいてい、その地の地名や歴史が織り込まれ、ご当地ソングとも言えないこともありません。灘区には数々の学校がありますが、その中でもnaddisticな校歌と言われる「神戸市立原田中学校」の校歌を取り上げてみます。
原田中学校は灘区南西部に位置します。
原田という地名は今の王子公園近くを指すのですが、そこから全然離れた場所にあります。これは創立した場所が現福住小学校のあたりだったからでしょう。「厚木」にある「青山」学院大学みたいなもんでしょうか。
普通、阪神地方の校歌の歌詞は、「六甲」「ちぬの海」等の風光明媚系地理的条件から始まるものが多いのですが、ここの校歌はのっけから一風変わっています。
「なびく煙は…」
なんと、大胆にも大気中の煤煙の状態から入っているのです。
この歌詞の作者は校歌作詞界の松本隆ともいわれている、重鎮富田砕花氏です。富田氏は、校区をくまなく歩き生活環境を調査して作詞したそうです。芦屋在住の富田氏は、当時(S33年)の灘区南西部の煙突の数、煙の量に圧倒されたのでしょう。いまでこそ、煙突は少なくなりましたが、当時の写真をみると恐ろしい位の煙突の数だったようです。そして、煙、煙、煙。
あの六甲をも曇らせる、あのちぬの海をもどんより覆う、「灘の煙」これを書かずして何が地元の校歌だ、もう煙しかない、誰が何といおうと煙だ、そう思ったに違いありません。
「なびく煙は…よしこれでいこう!いやまてよ…」
富田氏はふとこう思ったのではないでしょうか?
「いくら灘の名物とはいえ、こんな負のイメージのものを出だしに使ってよいのか?これが反公害住民運動に発展したらまずいのではないか?」
ここから富田氏はプロの腕を発揮します。
こう続けました。
「なびく煙は…生活の息吹に応え渦巻けど!」
そう負のイメージである「町の煙」を「生活の息吹に応え、日本の高度成長を支えるダイナミックで頼もしいヤツ」即ち正のイメージへと見事に昇華したのでした。
今は、すっかり煙突も煙も少なくなり、洗濯物が赤くなることもなくなりましたが(多分)、この校歌には、当時の灘の煙突の風景がこっそり記録されているのです。
注:文中富田氏のセリフ、心情の変化はあくまでもフィクションです。
(naddis990412-14 NADA sonic02「陰のご当地ソング」 1999.4.12より)
【ナダタマアーカイブス】都賀川がキレた日(naddis020810-132)
浜手生まれの私は都賀川の事を「大石川」と呼びます。
都賀川なんて呼ぶようになったのは震災後かもしれません。
だって銀バス(阪神国道バス)の停留所も「大石川」だし。
南北で名称が変わる川は都賀川だけではありません。
「青谷川」は南では「西郷川(さいごうがわ)」もしくは「味泥川」
「石屋川」は「徳井川」と呼ばれていました。
距離的には近いのに山手と浜手とで住民のエゴがぶつかりあう灘区
の特徴的な現象です。こんな所から灘南北問題をおちゃらけるのも
とっても愉快なのですが、それはまた次の機会にします。
水辺で歓声をあげる子供たち、のんびり犬の散歩を楽しむ人々、
楽器の練習にいそしむ若人、すっかり灘の親水空間として定着した
都賀川。ほんの少し前まではチャリンコや洗濯機までもが捨てられ
る巨大なドブ川だったのですが、今では様々な人の努力により大阪
湾に注ぎ込む都市河川で唯一「鮎の産卵が確認される」川にまでに
なっています。
…ある日曜の夕方。
そんな都賀川がキレました。
「今日は久々に都賀川で三線、弾きましょか」
naddist読者からの誘いを受け、私は「船越」で鯨、レバ、葱間、
いも、れんこん、玉葱、ししとうなどの串カツを仕入れ、ビールを
買い込み都賀川に向かいました。
5人のメンバーがぼちぼちと三線を持って集合。
「まずは『通い船』弾きましょか」
『通い船』は、沖縄の新民謡です。サンフランシスコ講和条約締結
の前年、1951年に那覇~奄美~神戸間に「新興丸」が、その後有名
な「黒潮丸」など次々に船が就航しました。
それを受け1960年に、故郷を遠くはなれた大阪、神戸在住の琉球
方面の人々の思いを歌にした『通い船』がリリースされヒットしま
した。灘区は「奄美市場」もあったくらいで、多くの奄美出身の人
が住む町です。そんな事もありnaddistではこの曲を「ナダソニック
(灘区ゆかりの音)」として認定しているのです。
「♪サー なーはーとーやまとぅーぬ かゆーいぶにーよー」
都賀川のせせらぎと三線の音、そして船越の串カツとビール。
まさに灘的日曜のおだやかな夕べの一時でした。
だいぶ日も暮れた頃、にわかに空が曇ってきました。
「お、降ってきたなあ…」
そして雷鳴。みるみる雨足が強くなり、我々はヤマカンの橋の下に
逃げ込みむことにしました。
雨はますます強くなり、川の流れはみるみる早くなっていきます。
この時の神戸は1時間に17mmの強い雨が降っていました。
その時…。
上流の方から「ゴォーーッ」という音が聞こえたました。
その音がピンクフロイドのように近づいてきたかと思うと、
「シャワシャワシャワジャッバーン!!」
一瞬にして我々の足下に濁流が流れ込んできました。
川床に水があふれ、船越で買った鯨、レバ、葱間、いも、れんこん、
玉葱、ししとうは緑色の包み紙とともに一気に下流へと流れていき
ました。さすが船越の串カツや、船のように見事に流れていくなあ
…なんて悠長なことは考えている暇もありません。
「やばい!避難や!」
「上流に進むのは無理!下流の区民ホールの所まで行きましょう!」
すっかり暗くなった川床。三面張にこだましスーパーウーハーで腹
に響く水の轟音。かすかに響く上流の六甲川からの「ドーンドーン」
という恐ろしい波音。足元には濁流。そして容赦なく降り続く雨。
神戸の川は山から河口までの距離が短く、急なので一気に水が流れ
ます。深い河川の断面設計はそのためです。
「次の波が襲ってきたら…かなりヤバイ…」
すぐそこに見える灘署にも我々の叫びも届きません。
数年前の台風の朝、護国神社横からゴムボートによる都賀川下りを
決行し、灘署に網で救助され、お灸をすえられた無謀なクミンのこ
とを思い出しました。
水かさは次第に増え、場所によっては膝上あたりまで来つつありま
した。段差のあるところはナイアガラの滝のようになっています。
「もうちょっとで上がれるで!がんばれ!!」
必死で脱出を試みる我々に、区民ホールの川岸にいるおじさんの声
が掛かります。
なんとか区民ホール下の階段にたどりついた我々は上から下まで
ずぶ濡れ。
「・・・・・・・・・怖・・」
雨はいつの間に小降りになり、川の水も引きつつありました。
我々はおたがいの無事を確かめあい、帰途につきました。
また明日になれば水辺で歓声をあげる子供たち、のんびり犬の散歩
を楽しむ人々、楽器の練習にいそしむ若人が三々五々集まる、おだ
やかな都賀川に戻るのでしょう。
神戸は昔からほぼ30年周期で水害に見舞われてきました。
前回が1968年1967年。そんなことを考えながら少しゾっとしました。
キレた都賀川。
今回の事件は、30年以上耐えつづけている都賀川の小さな警告だっ
たのかもしれません…。
(naddis020810-132 都賀川がキレた日 2002.8.10より)
バクオン東灘貨物駅(ナダタマアーカイブス)
神戸の町の音として、昔から「船の汽笛」なんてよくいわれます。
いわゆる「エキゾチック」っつうやつですか?
「プオー プイプイプイ」なんていったりするんですよね。
そりゃあ、私も小さい頃たま~~~に家族で元町なんかいったり
したときにゃあ大変でした。
まず昼飯。母と父のトンカツ戦争勃発。
母「今日は『武蔵』の海老かつにしよ」
父「いや今日は『呂路』や」
母「ケンイチは『武蔵』がええのに」
父「いや…今日は『呂路』や!」
私「・・・・(どっちでもええ)」
もとい、話が少しそれました。
とにかくどっちか行ったあと、何故かメリケン波止場に散歩に行っ
ていました。そこで「プオー プイプイプイ」でした。
ナダクミンの私にとっては「プオー プイプイプイ」はやはり元町
や三宮へ行く、ちょいよそ行きのハレの音でした。
では、普段使いの灘の「ケ」の音ってなんでしょう?
真っ赤に染まる敏馬の空をバックに、ガード下に潜んでいたナダコ
ウモリがうれしそうにダンスを始める灘の夕暮れ。
「ガガガガチャ!ガチャ!ガチャ~~ン!(チャ~ンチャ~ン…)」
神戸製鋼の煙突をも震わせ、天上寺の鐘も共鳴し、海星のマリア様
も思わず耳を塞ぎ、灘浜のテンコチも失禁してしまうといわれる
あのナダゾチックで灘っ子の腹に染入る爆音。
どこから聞こえてくるかというと…
JR灘駅と六甲道駅の間に「東灘貨物駅」というのがあるのはご存知
でしょうか?以前「なぜ灘区にあるのに東灘貨物駅というのか問題」
でも話題になった駅です。この駅の歴史は古く明治37年に「灘
信号所」として開設されました。その後大正6年に西灘村、西郷町
の有志の熱意が受けられられ旅客専用駅「灘駅」として格上げされ
ました。その時駅がちょいと西(現在の灘駅)に移動し、従来の灘
信号所は新しくできた灘駅の東だから東灘駅(貨物専用駅)とされ
ました。
東灘区民の方、このあたりで「その話納得いかない(ドン!)」
って感じになりませんか?
さっさと神戸市に編入された灘区、ごねて編入が遅れ灘区の東に
なったから東灘区。いっしょですよね~。
いっそ住吉駅を灘駅にしとくべきでしたね~。
残念でしたね~。
話がまたそれてしまいました。
そんな東灘区みたいな東灘貨物駅は神戸港方面にのびる臨港線の
分岐駅として地味に機能しています。
そこで毎日派手に行なわれていたのが
「ガガガガガチャガチャガチャ~~ン」の爆音です。
本線上の貨物を神戸港方面へ移送させるため、貨物列車を編成しな
おす時に貨物車と貨物車と貨物車と貨物車と貨物車と貨物車と
貨物車と貨物車と貨物車と貨物車と貨物車と貨物車と貨物車と
貨物車と貨物車と貨物車と貨物車と貨物車と貨物車と貨物車と
貨物車と貨物車と貨物車と貨物車と貨物車と貨物車と貨物車と
貨物車と貨物車と貨物車と貨物車と貨物車と貨物車と貨物車と
貨物車と貨物車と貨物車と貨物車と貨物車と…貨物車が50両ばか
りぶつかりあう音なのです。夕方になると、遠くの方からあの
「ガガガガガチャガチャガチャ~~ン」がやってくるのです。文字
だとうまく表現きませんが、ドミノ倒し的といいますか、伝言ゲー
ム的といいますか、都賀川(大石川)あたりから西に向かって爆音
が走り抜けるのです。ちょうど腹が減ったところに響くその爆音は、
灘っ子にとっては空腹に轟く時鐘であり、もうすぐご飯の知らせで
あります。
「腹がグー、貨物がガガガチャガチャガチャ~~ン」
中田ダイマルラケットの漫才のように毎日繰り替えされる儀式なの
です。
かつてはヨーロッパ行きの客船の乗客を神戸港へと運ぶ「ボート
トレイン」も通った東灘貨物駅
市バスのバス停もあった東灘貨物駅
王子動物園の動物達を下ろした東灘貨物駅
貨物列車がいっぱい止まっていた東灘貨物駅
重油臭かった東灘貨物駅
電車から見てもどこが駅かわからない東灘貨物駅
照明灯がとっても明るい東灘貨物駅
それでいつもレールが光っている東灘貨物駅
…なんだか森本レオの『母さんの歌』みたいになってしまいました
が、そんな大好きな東灘貨物駅から港へと伸びるあのノンビリとした、
臨港線も廃止されると聞きました。
あの爆音が聞こえなくなって何年経つのでしょう。いや今でも聞こ
えているのかもしれませんが、大人になって聞こえなくなってしま
ったのかもしれません。(それはありうる)
みなさんもどうぞたまには街に(遠く灘を離れた方は記憶の中の灘の
街に)耳をすませて見てください。
忘れていたあの街の音が聞こえてくるかもしれませんよ。
今日耳をすませば、上空には報道ヘリの爆音。
震災から7年経ちました。
(naddis020120-113 ナダソニック10「バクオン東灘貨物駅」2002.1.20より)
【ナダタマアーカイブス】伯母野山から愛を込めて
作家陳舜臣さんは灘区伯母野山に住んでいた。
しかも「灘区の中心で愛を叫ぶ」で有名な六甲学院正門前。
中国史を基盤とした歴史小説家として著名な陳さんが初めて
小説以外の作品として書いたのが『神戸というまち』(昭和40年)。
その16年後に改訂版の『神戸ものがたり』が出版され、さらに
16年後今回紹介する文庫本の『神戸ものがたり』が出版された。
陳さんの描く「神戸本」の醍醐味は、神戸に生きた人のものがたりを
通して街のものがたりを紡ぎ上げるところにある。
六甲山の開祖グルームを始め、原田の森を闊歩した稲垣足穂、
谷崎潤一郎、モラエス…かれらの生き様を通してあぶり絵のように
神戸のまちが浮きあがってくる。
ジャンジャン横町、メリケン波止場、布引、六甲、須磨…。
凡百の「神戸本」とはわけが違う。
もう聞きたくもない、ハイカラだのエキゾチックだのという神戸を
語る常套句も少ない。
神戸独特の風土を陳さんは「軽い精神」と呼ぶ。
伝統もなく、多方面から寄り集まった街の人々は極端に現実的で
時には悪趣味である。
振り向かない街であり、軽率で先走りな街なのだ。
先駆者になりうるが、大成はできない。
それは幾度もの破壊と再生が繰り返されている街であることも
関係しているのかもしれない。
陳さんも大水害、戦災、そして震災と大きな苦難を乗り越えて来た。
「古いもんはいずれなくなるんヤ」
「新しいもんもまた古くなるんヤ」
灘駅が建替えられようと、赤坂の家がなくなろうと、大正銀行が取り壊されようと
あまり気にしない、ある意味達観したような灘区の古老たちの言葉にも
「軽い精神」はリンクする。
しかし陳さんはその「軽さ」にも疑問を呈している。
そろそろ神戸も振り返る時期に来ているのではないかと。
陳さんは「灘区の中心で」震災の日を迎えた。
本書には何年経っても何度読んでも涙腺が緩む、震災直後1月25日の
神戸新聞朝刊1面に掲載された被災した神戸市民へのメッセージ
「神戸よ」も収録されている。
—————————————————————————————————
神戸よ
我が愛する神戸のまちが、潰滅に瀕するのを、私は不幸にして三たび、
この目で見た。水害、戦災、そしてこのたびの地震である。大地が揺らぐ
という、激しい地震が、3つの災厄のなかで最も衝撃的であった。
私たちはほとんど茫然自失のなかにいる。
それでも人々は動いている。このまちを生き返らせるために、けんめいに
動いている。亡びかけたまちは、生き返れという呼びかけに、けんめいに
答えようとしている。
水害でも戦災でも、私たちはその声をきいた。五十年以上も前の声だ。
いまきこえるのは、いまの轟音である。耳を掩うばかりの声だ。
それに耳を傾けよう。そしてその声に和して、再建の誓いを胸から胸に伝えよう。
地震の五日前に、私は五ヶ月の入院生活を終えたばかりであった。
だから、地底からの声が、はっきりきこえたのであろう。
神戸市民の皆様、神戸は亡びない。新しい神戸は、一部の人が夢見た神戸では
ないかもしれない。しかし、もっとかがやかしいまちであるはずだ。人間らしい、
あたたかみのあるまち。自然が溢れ、ゆっくり流れおりる美わしの神戸よ。
そんな神戸を、私たちは胸に抱きしめる。
—————————————————————————————————
震災から12年が経った。
神戸は、いや灘区は美わしく、かがやかしいまちになっているだろうか?
やはりそろそろ神戸も振り返りながら未来を見つめる時期に来ているのかも
しれない。
(ナダタマ 灘文化堂「伯母野山から愛を込めて」2007.9.10より)
まや温泉シンデレラサイレント
風呂屋はどの季節が似合うか?
夏!という人も多いかもしれません。
うだるような夏の夕方、風呂屋で一風呂浴びて串かつビールでナイター…まるで呪文のように唱える方もいらっしゃるでしょう。春!という人も、秋!と言う人も、冬!という人もいるでしょう。それぞれの季節にそれぞれの銭湯の楽しみ方があると思います。冬の風呂屋の楽しみ方としてこんなのはいかがでしょう。
放射冷却でキーンと冷えた冬の夜、空には星、そしてすいこまれそうな漆黒の摩耶山。
風呂屋が呼んでいます。でもあわててはいけません。9時や10時では楽しめません。
11時前まで待ってください。できればちょっと一杯ひっかけて、体を十分あたためておきましょう。
11時ごろ、いよいよ出発です。思いきって外へ出ると…とても寒いはずです。ここで先程の「一杯ひっかけ」が効いてきます。そして出かける先は「まや温泉」がいいかと思います。灘温泉、おとめづか温泉、みるめ温泉、五毛温泉では理由があってだめなのです。
まや温泉に到着したら、結構体も冷えてきていると思います。速攻で脱いでください。体重も量ってはいけません。浴室に入ってみるといつもの指定席「めがねの望月前洗い場」が埋っていたとしても、あわてず「古川電化ストア王子店前洗い場」に席をとります。体を流したら気で体があったまらない内に露天風呂に向かいます。
「さっぶっー」体にさぶいぼ(鳥肌)が立ってからお湯にはいります。
「あっつっー」そう、熱いんです。
「熱い湯なら灘温泉の方が熱いよ」そう思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、灘温的熱さとはまた一味違うのです。あちらは「てやんでえ、串かつはカラット揚げなきゃby船越」的熱さなのですが、まや温泉の熱さは、お釈迦さんのお母さん摩耶夫人が使う産湯の暖かさといいましょうか、厳しさの中の優しさ、熱あったかい滋味ならぬ「滋温」です。肩まで浸かっていると体があたたまってきます。でもって頭部は冷え冷え、あまりぬるい露天風呂だとこうはいきませんから。
さあ、ここまでは序章。この時点で11時20分ぐらいになっていると思います。クライマックスまでまだ時間がありますのでリラックス、ローリング、ドリーム、ヘルツ、ドライサウナ、お好きな浴槽メニューをこなしてください。
11時40分
もう一度露天風呂に戻ります。ここで待つこと5分。
11時45分
爆音を上げて勢いよく落ちていた、うたせ湯が突然とまります。
「よし、そろそろだ」
しばし、静寂感を楽しんだ後、もう一度屋内浴室にもどりお好きな浴槽にお入りください。ジェットバス系がおすすめです。
11時50分
さあ、その瞬間はもうすぐです。
「ジャバジャバジャバジャバウィーン、スコーン…シャバア~……
(静寂)……………………………………………………………………
………………………………………………………………………………」
欲室内のポンプが全て停止します。
これです。これ、とっても気持ちいいのです。この静寂の瞬間、なんか体中の疲れやらいろんなものが、摩耶山にすいこまれるように出ていくのがわかります。この瞬間のために一杯ひっかけて11時まで待ったのです。そしてNHK「ゆく年くる年」に通じるこの静寂感を味わうにはやはりキーンと冷えた冬の夜に限ります。
11時53分
欲室内の主な照明が落とされます。
この2~3分のタイムラグが実にニクい。
「ポトン…チャポン」
耳をすますとかすかに聞こえる水の音。
わびさびの世界が広がります。
11時56分
後ろ髪をひかれつつも浴室を出ます。
ここで粘ってはいけません。
おばちゃんが掃除に入って来てしまいます。
「ありがと!」
速攻で着替えて外に出ましょう。
「間に合った…」
時計はちょうど0時をさしています。
外は冷えきっています。湯冷めしないうちに家に帰りましょう。
あ、靴は忘れないでください。
まや温泉シンデレラサイレント
冬の灘の銭湯の小さな楽しみ方です。
(完)
シャバダバシャバダバシャバダバシャバダバシャバダバシャバダバ
名称は:まや温泉
場所は:天城通7丁目(駐車場有)
特徴は:毎晩行なわれるシンデレラサイレントイベント
効能は:裸でわびさび、疲労回復、明日への活力
牛乳は:白バラ牛乳
シャバダバシャバダバシャバダバシャバダバシャバダバシャバダバ
(naddist011210-110「灘秘湯の旅03 まや温泉シンデレラサイレント」2001.12.10より)
6月5日 中郷町(ナダタマアーカイブス)
昭和20年6月5日。神戸、そして灘区が猛火に包まれた日。
8月5日の空襲と合わせて灘区の被害は、死者808人、全焼・全壊家屋18068戸、罹災者74102人とされているが、届け出のあったものだけに限られているので、実数はさらにこれを上回る凄惨なものだった。
当時、中郷町3丁目に住んでいた野坂昭如はこの時の空襲体験をもとに戦争文学の名作『火垂の墓』を書いたのは、灘クミンならよくご存知のことと思う。
この時、同じ中郷町にもう一人の少年がいた。
野坂の家(養父張満谷家)から目と鼻の先の中郷町2丁目に住んでいた少年が、後の桂枝雀となる前田達少年だった。
神戸空襲のとき、野坂は15歳でが前田少年は5歳。その時の記憶を野坂は小説にしたが、枝雀師匠は落語の枕にした。「貧乏神」という気の弱い神様の話の枕が『上方
落語 桂枝雀爆笑コレクション〈4〉萬事気嫌よく』(ちくま文庫)に収録されている。
エー、昭和20年に大空襲がございます。
神戸は6月でございました。大阪は、エー6月ではなかったのかと思いますが、えらい空襲でございました。
ご承知の方はご承知でしょうが、親父がブリキ職でございまして、まあ、職人でございますから、仕事場にでございますね。神棚がしつらえてございまして…
前田家は灘区中郷町2丁目でブリキ店を営んでいた。
仕事場には神棚があり、朝に夕べに祈りをささげていたという。
近所の徳井神社の氏子だったのかもしれない。
6月5日、中郷町にも空襲警報が鳴り響く。
いつもは警戒警報だったのが、この日は違った。
「今日も大丈夫やろう」言うてましたら、その日に限って
「空襲警報ォ!」
ダルゥドゥズバババババババババァー…
「えらいこっちゃー!お母ちゃん、空襲やー」
言うたらね、そのね、朝晩拝み上げていた神棚の
神さんね、一番にドタッ。
落ちてこられたんでございますねえ。
嘘でもねえ、朝晩拝み上げている神さんでございますから、もーちょっと頑張ってもらいたかたんですが、ねえ…
神様が先に落ちてきて、その後に実の姉が落ちてきて、「姉はようがんばったのに、神様は…」というオチ。灘区を焦土と化した空襲だから、もっと緊迫感があったに違いないが、枝雀師匠は「頼んない神さんでございましてね。」とおどけてみせる。
悲惨な状況を笑いへと転化するという、彼の落語理論だった「緊張と緩和」の実践。
そして戦時下の「神への妄信」を、軽やかに揶揄する批評精神。
同じ神戸大空襲を描きながら、方や悲劇的な物語を、方や喜劇的な噺を。
灘区中郷町という小さな街の小さな奇跡だ。
桂枝雀の生家があった中郷町2丁目から野坂昭如が暮らしていた中郷町3丁目を望む
(ナダタマ 灘文化堂「6月5日 中郷町」2011.6.6より)