浜手生まれの私は都賀川の事を「大石川」と呼びます。
都賀川なんて呼ぶようになったのは震災後かもしれません。
だって銀バス(阪神国道バス)の停留所も「大石川」だし。
南北で名称が変わる川は都賀川だけではありません。
「青谷川」は南では「西郷川(さいごうがわ)」もしくは「味泥川」
「石屋川」は「徳井川」と呼ばれていました。
距離的には近いのに山手と浜手とで住民のエゴがぶつかりあう灘区
の特徴的な現象です。こんな所から灘南北問題をおちゃらけるのも
とっても愉快なのですが、それはまた次の機会にします。
水辺で歓声をあげる子供たち、のんびり犬の散歩を楽しむ人々、
楽器の練習にいそしむ若人、すっかり灘の親水空間として定着した
都賀川。ほんの少し前まではチャリンコや洗濯機までもが捨てられ
る巨大なドブ川だったのですが、今では様々な人の努力により大阪
湾に注ぎ込む都市河川で唯一「鮎の産卵が確認される」川にまでに
なっています。
…ある日曜の夕方。
そんな都賀川がキレました。
「今日は久々に都賀川で三線、弾きましょか」
naddist読者からの誘いを受け、私は「船越」で鯨、レバ、葱間、
いも、れんこん、玉葱、ししとうなどの串カツを仕入れ、ビールを
買い込み都賀川に向かいました。
5人のメンバーがぼちぼちと三線を持って集合。
「まずは『通い船』弾きましょか」
『通い船』は、沖縄の新民謡です。サンフランシスコ講和条約締結
の前年、1951年に那覇~奄美~神戸間に「新興丸」が、その後有名
な「黒潮丸」など次々に船が就航しました。
それを受け1960年に、故郷を遠くはなれた大阪、神戸在住の琉球
方面の人々の思いを歌にした『通い船』がリリースされヒットしま
した。灘区は「奄美市場」もあったくらいで、多くの奄美出身の人
が住む町です。そんな事もありnaddistではこの曲を「ナダソニック
(灘区ゆかりの音)」として認定しているのです。
「♪サー なーはーとーやまとぅーぬ かゆーいぶにーよー」
都賀川のせせらぎと三線の音、そして船越の串カツとビール。
まさに灘的日曜のおだやかな夕べの一時でした。
だいぶ日も暮れた頃、にわかに空が曇ってきました。
「お、降ってきたなあ…」
そして雷鳴。みるみる雨足が強くなり、我々はヤマカンの橋の下に
逃げ込みむことにしました。
雨はますます強くなり、川の流れはみるみる早くなっていきます。
この時の神戸は1時間に17mmの強い雨が降っていました。
その時…。
上流の方から「ゴォーーッ」という音が聞こえたました。
その音がピンクフロイドのように近づいてきたかと思うと、
「シャワシャワシャワジャッバーン!!」
一瞬にして我々の足下に濁流が流れ込んできました。
川床に水があふれ、船越で買った鯨、レバ、葱間、いも、れんこん、
玉葱、ししとうは緑色の包み紙とともに一気に下流へと流れていき
ました。さすが船越の串カツや、船のように見事に流れていくなあ
…なんて悠長なことは考えている暇もありません。
「やばい!避難や!」
「上流に進むのは無理!下流の区民ホールの所まで行きましょう!」
すっかり暗くなった川床。三面張にこだましスーパーウーハーで腹
に響く水の轟音。かすかに響く上流の六甲川からの「ドーンドーン」
という恐ろしい波音。足元には濁流。そして容赦なく降り続く雨。
神戸の川は山から河口までの距離が短く、急なので一気に水が流れ
ます。深い河川の断面設計はそのためです。
「次の波が襲ってきたら…かなりヤバイ…」
すぐそこに見える灘署にも我々の叫びも届きません。
数年前の台風の朝、護国神社横からゴムボートによる都賀川下りを
決行し、灘署に網で救助され、お灸をすえられた無謀なクミンのこ
とを思い出しました。
水かさは次第に増え、場所によっては膝上あたりまで来つつありま
した。段差のあるところはナイアガラの滝のようになっています。
「もうちょっとで上がれるで!がんばれ!!」
必死で脱出を試みる我々に、区民ホールの川岸にいるおじさんの声
が掛かります。
なんとか区民ホール下の階段にたどりついた我々は上から下まで
ずぶ濡れ。
「・・・・・・・・・怖・・」
雨はいつの間に小降りになり、川の水も引きつつありました。
我々はおたがいの無事を確かめあい、帰途につきました。
また明日になれば水辺で歓声をあげる子供たち、のんびり犬の散歩
を楽しむ人々、楽器の練習にいそしむ若人が三々五々集まる、おだ
やかな都賀川に戻るのでしょう。
神戸は昔からほぼ30年周期で水害に見舞われてきました。
前回が1968年1967年。そんなことを考えながら少しゾっとしました。
キレた都賀川。
今回の事件は、30年以上耐えつづけている都賀川の小さな警告だっ
たのかもしれません…。
(naddis020810-132 都賀川がキレた日 2002.8.10より)